プロレス好きの伸太郎のブログにようこそ

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平清盛



今年スタートしました平清盛の初回の放送を観ましたやれ視聴率過去ワースト3とかマスコミが騒いでいたり〇〇県の知事が批判したりしています
私が思うには 良いも悪いも話題が出ると言う事
これが一番大切な事だと思います
とにかく日本人は他人が気になる人種
私は観ましたが
私は好きです
当時を再現しようとする監督スタッフの気持ちが感じられました
私の平清盛のイメージは 貴族社会から武家社会が主導権を握り 政治の実権を実力で勝ち取った 後々戦国時代に繋がる 最強の武将だったと言うイメージです
勿論後々に頼朝が受け継ぐのですが
やっぱり最初の最強武将と言えば 平清盛私はそう思いますね(^.^)b
知れば知るほど 楽しくなるのが歴史
また歴史には学ぶ事が沢山あります
特に先頭に立っている経営者にはトップとして学ぶべき事が 多々あると思います
今年は平清盛に人生に必要な事を教わりたいと思います
いかにはい上がって頂点に立ったのか
これからの私には物凄く興味があります
何度も言いますが私は
今回の大河ドラマかなり期待してるし好きです
来週から欠かさず観る是よ
あー竜馬を想いだしてしまった
観るか観ないかはあなた次第です

三國志

この頃 三國志を最初から読み直しています

今やっと 英雄達が 立ちがって 董卓討伐へ

素晴らしい
三國志と出会い20年以上の月日が
きっと皆さんも 三國志ファンは多いと思います
日本の歴史も素晴らしいが中国の歴史は
とにかく日本の歴史と比べものにならないほどスケールが大きいし規模が余りにも大きい
しかも三國志の歴史は西暦200年頃
壮大な歴史が
その中に登場する
英雄達
まだ三國志を知らない方がいるなら
一度は三國志の世界へ
オススメしたい
三國志には 男のロマンが きっと 人生に必要な大切な事を教えてくれるはず
因みに今年の夏
EXILE劇団 三國志演技を 弟を連れて
観にいこうと考えています

今から楽しみだ 舎弟も三國志演技を観て何かを感じてくれれば・・・経営者リーダーとは歴史に学ぶ事も必要私はそう感じている経営者とは毎日毎日が戦勝たなければ生き残れないそれが社会の厳しい掟それでは今日も
何時も通り 己のやるべき事を一生懸命頑張りましょうね

高台寺

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おはようございます今日もスタートしました工場は何時も通り既にスタッフが何時も通り段取りしてます今日も安全第一で宜しくお願いします今日は高台寺と太閤秀吉公の養子秀次のお墓をご紹介します不運な運命をたどった殺生関白まさに下剋上の世界だったと言う事でしょう鷲峰山(じゅぶざん)高台寺(臨済宗建仁寺派)

 東山霊山(りょうぜん)の山麓、八坂法観寺の東北にある。正しくは高台寿聖禅寺といい、豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(ねね、出家して高台院湖月尼と号す)が慶長11年(1606)開創した寺である。寛永元年(1624)7月、建仁寺の三江和尚を開山としてむかえ、高台寺と号した。造営に際して、徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助を行なったので寺観は壮麗をきわめたという。
 現在旧持仏堂の開山堂、霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台等が国の重要文化財に指定されている。 秀吉と北政所を「霊屋(おたまや)」に祀り、北政所像の下はその墓所となっている。須弥壇(しゅみだん)と厨子は華麗な蒔絵装飾が施され、桃山美術を代表する「高台寺蒔絵」として知られる。開山堂を中心に東西に広がる池庭は小堀遠州作と伝えられる。
尚、豊臣秀吉夫人(北政所)は天正16年(1588)に従一位に序せられ慶長8年(1603)に後陽成天皇より高台院の号を賜り寛永元年(1624)9月6日、76才で亡くなられた。





本当見事な庭園でした皆さんも一度は行って見てください茶会も開かれるようです
高台寺でしたそれでは皆さん 今日も1日気合い入れて頑張りましょう

織田信長



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「なかぬなら 殺してしまへ 時鳥(ホトトギス)」という歌がその性格を表していると言われている。しかしこれは本人が作ったものではなく平戸藩主・松浦清(松浦静山)の随筆『甲子夜話』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である(q:時鳥#川柳)。また、この歌の続きには「鳥屋にやれよ…」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍はあまりに気骨が無いと批判するもので、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。
フロイスは信長の人物像を「長身、痩躯で髭は少ない。声は甲高く、常に武技を好み、粗野である。正義や慈悲の行いを好み、傲慢で名誉を尊ぶ。決断力に富み、戦術に巧みであるが規律を守らず、部下の進言に従うことはほとんど無い。人々からは異常なほどの畏敬を受けている。酒は飲まない。自分をへりくだることはほとんど無く、自分以外の大名のほとんどを軽蔑しており、まるで自分の部下のごとく語る。良き理解力、明晰な判断力に優れ、神仏など偶像を軽視し、占いは一切信じない。名義上法華宗ということになっているが、宇宙の造主、霊魂の不滅、死後の世界などありはしないと明言している。その事業は完全かつ巧妙を極めている。人と語る時には遠回しな言い方を嫌う」と記した。
尾張の僧侶天沢は、甲斐を訪れた際に武田信玄に信長の日常の様子を尋ねられ「信長公は毎朝馬に乗られ鷹狩りにもしばしば行きます。また鉄砲を橋本一巴、弓を市川大介、兵法を平田三位に学ばれ稽古をされる。趣味は舞と小唄。清洲の町衆松井友閑をお召しになり、ご自身でお舞になりますが、敦盛一番の外はお舞にならず“人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり”の節をうたいなれた口つきで舞われます。[12]“死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの”の小唄の一節を口ずさまれる。」と答えた。
天正元年(1573年)11月、足利義昭の帰洛交渉のため、毛利輝元から信長の元に派遣された毛利氏の家臣・安国寺恵瓊は「信長の代、五年三年は持たるべく候、来年あたりは、公家などに成らる可しと見及び候、左候て後、高転びに転ばれ候ずると見申し候、秀吉さりとてはのものにて候」と国許へ書状を送っている。
『信長公記』によれば、浅井久政・長政父子と朝倉義景の3人の頭蓋骨に金箔を貼り、「他国衆退出の已後 御馬廻ばかり」の酒宴の際に披露した。これは後世、髑髏を杯にして家臣に飲ませたという話になっているが実際には使用していないらしい。髑髏を薄濃(はくだみ)にするというのは、死者への敬意を表すものである。
弟・信勝の暗殺や叔母・おつやの方の処刑により、「身内にも厳しい人物」との印象もある。一方では、反乱を計画した兄・信広を赦免後には重用する、前述の信勝も一度は許している上に彼の遺児(津田信澄)の養育を責任を以って手配しており、叔母の処刑も自身が降伏しただけでなく信長の実子までも武田に差し出した行為の怒りからとも推測できる。自分の弟が戦死した場合には相手を徹底的に攻撃する(比叡山焼き討ち、長島一向一揆殲滅)、信長の親族と婚姻した家とは自身から直接的な敵対行動をとらない(武田・浅井共に、先に敵対行動をとったのは相手側である)など、「(当時の大名階級としては)身内に優しい人物」との評価もある。
また、非常に律儀な性格であり、信長の側から盟約・和睦を破った事は一度も無い。一時は和睦しながら再び信長と敵対した勢力は数多いが、それら勢力は自ら先んじて信長との盟約・和睦を反古にしている。例外として不戦の盟約を破って朝倉氏を攻撃した事例があるが、この盟約は浅井氏と交わしたものであって、直接朝倉氏と不戦の盟約を交わした訳ではない。
世間の評判を重視しており、常に正しい戦いであると主張することに腐心していたことが、京都の公家などが記した日記などから窺知することができる。
長女の徳姫を除くと生前に縁組させた冬姫らの娘達は個人的にも親交のある家臣である前田家、丹羽家、若しくは少年時代から面倒を見てきた蒲生氏郷に嫁入りさせており、信長の死後も夫から大事にされ続けている。このことから、「娘を大事にしてくれそうな婿を厳選する」甘い父親とも評されることもある。また、織田家関連の女性には実名が判明している女性が多いため、当時の人間としては女性を重視していたという見方もある。
尾張から岐阜に単身赴任した部下を叱る、羽柴秀吉夫妻の夫婦喧嘩を仲裁する等家庭内での妻の役割を重視した言動が残されている。
『信長公記』では信長の性格の一端を窺える次のような逸話が紹介されている。美濃と近江の国境近くの山中という所(現在の関ヶ原町山中)に「山中の猿」と呼ばれる体に障害のある男が街道沿いで乞食をしていた。岐阜と京都を頻繁に行き来する信長はこれを度々観て哀れに思っていた。天正三年(1575年)6月、信長は上洛の途上、山中の人々を集め、木綿二十反を山中の猿に与えた。更に「これを金に換えて、この者に小屋を建ててやってほしい。そして毎年麦や米を施してやってくれれば、自分はとても嬉しい」と山中の人々に言った。山中の猿はじめ、人々はこれに感涙したという。
荒木村重の説得に向かった黒田孝高が帰還しなかったため裏切ったと判断し、息子黒田長政の処刑命令を出したものの、後に如水が牢に監禁されていた事が判明した時には「如水に合せる顔が無い」と深く恥じ入っている。その後長政が竹中重治に匿われていた事が分かった時には狂喜した。自分の間違いが明らかになった場合には素直に認めて反省する一面もあった。

本能寺







今日は大安吉日待ちに待った新しい機械が工場にと言う事で先ほど代表を交えて納車式が無事終了致しましたやっぱり最高ですスタッフに大切に丁寧に使ってください宜しくお願いしますいっぱい活躍して下さいよ今日から少しずつ京都の思い出を残して行きたいと思います先ずは私の憧れだった戦国時代の覇王信長の最後の地本能寺をご紹介します覇王信長が最後どのような気持ちで散ったのかそして実際本能寺とはどのような場所にあったのかこの目で確かめたかったのです実際行ったらやはり興奮しました本当に御所は目と鼻の先にあり本当リアルに感じました覇王信長公のお墓の前に立って感じた事を胸にいや思いを大切にして頑張りたいと思います新しい世の中を作ろうと天下布武を唱え新しい事に挑戦し続けた覇王信長公やっぱり貴方は永遠の憧れです最高の思い出になりましたありがとうございました



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プロフィール

名前    臼井伸太郎      生年月日 1974年5月31生  身長 174cm   体重72kg   職業 産業廃棄物処理業

Author:名前 臼井伸太郎 生年月日 1974年5月31生 身長 174cm 体重72kg 職業 産業廃棄物処理業
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